人口は約37万人[1]、2015年(平成27年)の昼夜間人口比率は97.1%である[2]。豊橋都市雇用圏の人口は約66万人、豊橋市が定義している豊橋都市圏[注釈 1]の人口は79.8万人である。 中世から江戸時代まで市の中心部は吉田(よしだ)と呼ばれていた。吉田という地名は全国各地にあったため、三州吉田と呼ばれることが多かった。 吉田は豊川と朝倉川の合流地点であり、渥美郡、宝飯郡、そして八名郡の境目に当たる。江戸時代には 吉田藩の城下町、吉田宿の宿場町、豊川水運で栄えた湊町であった。明治2年6月(1869年)の版籍奉還で、吉田から豊橋に改称した。 市徽章は、江戸時代末、吉田城に8代君臨した長沢・松平・大河内(ながさわ・まつだいら・おおこうち)家が用いていた馬印を横から見た形の千切(ちぎり)である[4]。 三河港や豊川用水を有する。16世紀の今橋城(のち吉田城と改称)建築以来、東三河の中心に台頭し、江戸時代は特に、三州吉田藩の城下町、東海道五十三次の吉田宿・二川宿があった。幕末の石高は7万石であり、岡崎藩や西尾藩を上回って三河国内では最大だった。愛知県の南東部に位置し、渥美半島の付け根部分にある。豊橋平野の上に市域が広がっており、豊川や梅田川などが流れる。南部は高師原、天伯原と呼ばれる台地となっている。 主な山として北東部の石巻山(358メートル)などがあり、弓張山地が静岡県との県境を形成している。南部は太平洋と接しており、片浜十三里(表浜海岸)と呼ばれる海岸はウミガメの産卵で知られる。三河湾沿岸には大規模な埋立地があり、工業用地や神野新田などの農業用地となっている。
名所・旧跡 主な城郭 豊橋公園 吉田城跡 豊橋市美術博物館 三の丸会館 二連木城跡(大口公園) 大津城跡(高縄城) 月ヶ谷(わちがや)城跡 主な寺院 吉田三ヶ寺 龍拈寺、神宮寺、悟真寺 臨済寺(小笠原氏の菩提寺。茶道宗徧流ゆかりの寺。) 全久院(戦国武将戸田全久の菩提寺) 普門寺 赤岩寺 聖眼寺 主な神社 吉田神社 安久美神戸神明社(豊橋神明社) 賀茂神社 石巻神社 東田神明宮 二川伏見稲荷 牟呂八幡社(幕末の「ええじゃないか」発祥の地とされている。) 湊神明社 老津神社 主な遺跡 瓜郷遺跡 馬越長火塚古墳(国史跡、県史跡) その他の旧跡 豊橋市公会堂(登録有形文化財) 豊橋ハリストス正教会(重要文化財) 牛川の渡し 岩屋観音(大岩寺) 二川宿本陣資料館 前芝の燈明台 嵩山蛇穴 - 縄文時代の洞窟遺跡として国の史跡に指定されている鍾乳洞(史跡指定日:1957年7月1日)。ジャアナヒラタゴミムシなど全国的にも希少な洞穴生物が生息する。 観光スポット 自然 葦毛湿原 賀茂しょうぶ園 石巻山 博物館 豊橋市美術博物館 豊橋市自然史博物館 豊橋市地下資源館 豊橋市二川宿本陣資料館 嵩山蛇穴 主な公園 岩田運動公園 牛川遊歩公園 豊橋公園 豊橋総合スポーツ公園 豊橋総合動植物公園(のんほいパーク) 向山緑地
伊勢神宮の神領の一覧表である神鳳鈔に、吉田御園と記載があり、神宮雑書にも、建久3神領注文、外宮領、承平年間宣下、長寛1免租。神宮雑書・建久3神領注文 = 吉田御園、外 = 給主故少納言重綱(藤原ヵ)所由 = 件御園、雑(新ヵ)神戸内往古神領也、承平以後官符宣旨重畳之上、長寛元年重被下奉免宣旨也 = 供祭物、上分米3石、雑用料17石、件上分米近年不究済之・神鳳鈔 = 吉田御園 = 外宮上分3石菓子、雑用20石・諸国御厨御園帳 = 吉田御園 = 3石、菓子、栗6篭。このことから、平安時代には、吉田の地名が確認できる。 今橋の初見は、応永5年11月22日の足利義満御判御教書の今橋御厨である。 貞応3年(1224年)頃の豊川は飽海川と呼ばれており、そこに架けられた橋の名前が今橋とされた。その後、大永2年(1522年)頃に今橋から吉田と改名されたという[5]。 牧野氏による吉田城築城のくだり(牛窪記)や、天文年中の牧野氏・今川氏の書状に見え、今橋跡職、名字之知にて御座候間、という今川氏への訴状。藩翰譜の牧野氏の項目に、今橋城が吉田城と改名されたという解説。天文年中の今川氏の書状で三州吉田という用語が見え、今橋が使用されなくなっている事実などから、牧野氏が治めていた時代には今橋が使用されていたが、今川氏が直轄支配の時代になると、吉田がもっぱら使われ、今橋は使用されなくなる。 徳川家の史料である三河物語や家忠日記では一貫して吉田となっており、伊勢神宮の史料でも吉田御園であり、今川氏による三河国領土化・吉田城の取得以後、一貫して吉田と呼称され、今橋が廃号となっていることなどからも、今橋が吉田に改称されたとは言い切れないだろう。 遊嚢賸記には、今橋ハ渡津ノ今道ヘカケタル故ノ名ナルベシ、という記述があり、東関紀行の文中にある、渡津の今道、という文言に今橋は由来するという。 明治維新により豊橋と改名 前述の通り明治新政府は当時の三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩(宇和島藩の支藩)(旧愛媛県北宇和郡吉田町、現愛媛県宇和島市)に似て紛らわしいとのことで藩名変更の命を下した[6]。その命を受け藩主は「豊橋、関屋、今橋」の3つの名を選んだ。新政府はその一番目の「豊橋」を採用して、正式に「豊橋藩」という藩名とすることを命じた。その後廃藩置県の後も豊橋の名が使われる。 豊橋(とよはし:吉田大橋) 『三州吉田記』の記述にあるように、酒井忠次の吉田川(豊川)への架橋以前に、橋は存在しておらず、鎌倉時代の史書(『東関紀行』・『海道記』・阿仏尼の『うたたねの記』および『十六夜日記』)にも、川の浅瀬を渡っていることが記述されている。 徳川氏の武将の酒井忠次が、1570年(元亀元年)、関屋口から下地にかけて吉田川(豊川)に吉田大橋(土橋)を架ける土木工事を実施した。[7]その後、池田輝政が、船町を整備し前城主・酒井忠次が吉田川に架けた土橋の吉田大橋を木橋に架け替え、その位置も整備した下流の船町に移動させた。『三州吉田記』に「元亀元年、関屋之渡口始メテ土橋ヲ架ス」とあり、1591年(天正19年)にこの土橋を船町へ移すと記す。江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。 この船町の吉田大橋(吉田橋)は、明治時代に架け替えた時、とよはしと名称を変更した。さらに、昭和に入ってから国道1号を整備した際、その上流(関屋口から下地)に新たに掛けられた橋を、以前の船町で呼称していた吉田大橋(よしだおおはし)と、再び名付けた。この国道整備により、かつての東海道は愛知県道496号白鳥豊橋線として県道になり、正式にはもともと架かっていた県道の大橋(西側の橋)の名を豊橋(とよはし)とするようになった。ただ、市名と橋名を区別するため、橋名を(とよばし)と呼ぶようになった。国土交通省は、豊橋(橋)の名前を(とよはし)として、登録している。
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